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つぶやき

日々感じたことをつぶやいてます。

自分が教えたい人に教える

昨日の風呂でのこと。

がっつり筋トレやり過ぎて、筋肉が悲鳴をあげていたんだな。

ジムのお風呂は温泉で、サウナ付。

しっかり水風呂でアイシングして、サウナで汗を落とす。

この時間が実は自分にとって至福の時。

別に知り合いもいないし、ただ自分の内側と向き合って、汗を流す。

この時に沢山メッセージをもらう。

胸筋、太もも、ふくらはぎ、肩甲骨周りを意識してもむ。

今日も良く頑張ったな・・・と心の中で呟きながら。

 

私は、スピリットのこと、心のこと、霊的なこと、神様のこと、知っていることは誰にでも教えてきたけど、教えたい人がいたかな・・・と思った。

インドに行った時、聖者に会ったんだ。

彼は、自分が教えたいと思った人にしか教えない。

インタビュー時に、大体のことを見抜いて、伝えることは淡々と伝える。

ただ教えるとなると話は別。

自分の大事な経験、体験、真実をあかすわけだ。

人によっては、上げ足を取り、否定的なイメージを送ってくる。

人によっては、それを自分の経験、体験として語り、その人の真実ではない。

だから、その人が体験、経験できるように促し、結果を共有して教える。

そのためには、常に合宿。

寝食をともに、祈りの時間、瞑想の時間、心の語らいまで共に過ごす。

お互いの人を丸出しにして、魂と魂で語らうまでの近い距離に置く。

そこではじめて教えることができると。

人づてだが、そう聞いた。

 

たまに行って、数週間一緒に居たくらいでは、そこまで近くはなれないしな。

それでも教えを求め永住覚悟の日本人はいる。

 

そんな光景がイメージされたサウナ室。

汗だくで、筋肉疲労に困憊しているおっさんの心がそんなことを思っているなんて、誰も思ってないわけです。

 

教えるの意味。

教わるの意味。

 

そんなことを真剣に汗だくで考えているのでした。

確かに、教え/学ぶ 学ぶ/教える のワークはしてきた。

ただ、そうしたい人にしてきたか・・・が問題だ。

教わりたい人におしえてきたか・・・。

どこまで何をどのように教わりたいのか・・・。

 

大体の人は、在る一定のところまで来ると教わりたいが止まる。

それは、だんだん厳しいことになっていくし、迷惑な話になってくる。

それくらい、己の心の中に、内に入っていくのはきっついもんなんです。

とても素晴らしい愛なるエネルギーに触れた時は歓喜する。

とても醜い愛なるエネルギーに触れた時は落胆する。

そこで問われる自分の在り方。

その境界線のような場所が心のどこかにあって、そこから先に踏み込もうとする人は、いまだかつて数人、五本の指で足りる。

 

と、こんなことを考えるということは、教え方というより、気持ちの問題だな。

教えたいと思う人に教える。

教わりたいは相手の都合で、教えたいは自分の都合。

 

仕事となると。。。

 

どうなんやろか。